エスペラントでは平板な意志疎通しかできないのではないか という疑問を耳にすることがある。 確かに、日本語や英語などと比べて、 どこの民族集団の母語でもないという点、 また計画された言語であるという点で、 エスペラントは特異な存在かもしれない。 しかし、エスペラントは言語をむやみに簡略化した記号体系などではなく、 不規則を整理しただけで、独自の語彙と文法を備えた ちゃんとした言葉としての構造を持っているのであるから、 言語というものの性質に関して、 エスペラントは いわゆる「自然言語」と本質的に異なっていない。 すなわち、ある領域で使われること(実践)によって、 その領域で使えるようになっていくのである。 例えばテレビというものができ、それを言い表す必要が生じると、 エスペラントの発音・文法によって televidiloという語ができる。
感情表現についても同じで、 エスペラントは単なる言語案であったのが、 世界文学の翻訳と原作文学の創作、 さらには国際交流における使用によって 生きた人間の言語への脱皮を果たした経緯がある。 エスペラントは、情緒表現を託すことによって 詩作の言葉となり、 エスペラントを通じた国際結婚の出現によって、 愛のささやきや夫婦喧嘩・子育てに堪える言葉となったのである。 逆に言えば、 話し手が伝えたい感情・思いに応えてくれるからこそ エスペラントは今日まで使われてきた、ということになる。
(木村護郎)
これは 「Revuo Orienta (1997年1月号)」の特集記事からの抜粋です。 コメントや問い合わせは 「日本エスペラント学会 ウェブ管理人」宛でお願いします。
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