「エスペラント / La Revuo Orienta」 1997年1月号掲載

新語はどうしてつくるのか

新語はヨーロッパの言語から取るのがふつうです。 というと非ヨーロッパ人に対する差別だとの非難が必ず出てきます。 これは当たっていません。 なぜならエスペラントはヨーロッパの言語だからです。

語原からいえば、ギリシャ-ラテンの古典語からのものが圧倒的です。 これは中立的なものです。 たとえば、 箸のことを「ハシーオ」と呼べ、というようなことを言う人がよくいます。 しかしこれは中国人や韓国人に対する差別でなくてなんでしょう。 bastonetoというエスペラントの精神にかなったことばがあります。 そろばんもそうです。 これには国際的なabakoということばがあります。 これは現在のギリシャの国とも、 語原だと言われているヘブライ語の話されているイスラエルとも関係のない 中立的なことばです。

自然主義と計画主義の対立があって和解しがたいと考える必要はありません。 どちらもエスペラントを豊かにするものです。 後者が論埋的で憶えやすいという長所があれば、 前者は国際的だといういいところがあるのです。

filozofioということばを使わないのは 日中韓の3国だけです(極言すれば)。 哲学と言ってみたところで われわれは アリストテレスからデカルトを経てへーゲルを通る概念体系で 考えているわけです。 「ヨーロッパの」というのは地埋的なものでなく、 かかる普遍的な文化史的な概念なのです。

(ヤマサキ セイコー)


これは 「Revuo Orienta (1997年1月号)」の特集記事からの抜粋です。 コメントや問い合わせは 「日本エスペラント学会 ウェブ管理人」宛でお願いします。

[記事一覧に戻る] [ホームページ]