このウェブページは、『希望
する人 - ザメンホフ伝』 (著者:土居智江子、1980 年初版) の図書を転載したものです。
(2024年9月:本会旧ウェブサイトのアーカイブから現ウェブサイトに転載しました)
- ぶん: どい ちえこ
- え: あいはら みさこ
もくじ
ポーランドの町かどで
いまから 120 年1ぐらい、つまり、みなさんの おじいさんの おじいさんが うまれたころのことです。わたしたちの国、日本では、江戸時代の おわりごろでした。
それまで 200 年ぐらいのあいだ 鎖国といって 外国人とは つきあわないできましたが、そのころ アメリカから 船がきたりして、すこしずつ、外国のこと、せかいのことが わかりかけてきた ころのことです。
そのころ、ヨーロッパの東の方、リトワニアというところにある小さな町、ビャウィストクでのことです。この町は、そのころ ロシヤ、つまりいまのソ連に2 しはいされていました。
この町に すんでいるのは 半分いじょうが ユダヤ人で、あとは ポーランド人、ドイツ人、ロシア人などでした。ですから 町の中では ユダヤ人はイディッシュ語を、ポーランド人はポーランド語を、ドイツ人はドイツ語を、ロシヤ人はロシヤ語を話していました。そのほかにも、リトワニア語、トルコ語、フランス語で話す人もいました。ロシアは ポーランドとたたかって この地方を しはいしていたので、「ポーランド語はつかうな、ロシア語をつかえ!」と、いうような めいれいさえ だしました。
そんなに たくさんの ことばがつかわれている この小さな町の ザメンホフさんのうちに 赤ちゃんがうまれました。ルドビーコという名前が つけられました。 1859 年 12 月 15 日のことです。おとうさんは ユダヤ人で、外国語の先生をしていました。まじめな きびしい人でした。おかあさんも ユダヤ人で、かみさまをしんじる やさしい人でした。ルドビーコが うまれたとき おとうさんも おかあさんも まだとてもわかくて びんぼうなくらしを していました。それにルドビーコのあとに つぎつぎと 妹や弟が 8 人も うまれました。
ルドビーコは 小さいときから からだがよわく よく びょうきに かかりましたが 本を読んだり、うたをつくったりするのが、だいすきな こどもでした。家の中で ルドビーコは ロシヤ語、ポーランド語、ドイツ語、リトワニア語、それに イディッシュ語も きいてそだちました。すこし大きく なってからは、おとうさんから ロシヤ語、ドイツ語、フランス語を きちんと ならいました。
ルドビーコは やさしい おとなしいこどもで、弟や妹の めんどうを よくみました。また、おかあさんの しごとも よくてつだいました。とおくの 井戸まで 水をくみに いくのです。水はこびは とてもたいへんな しごとです。「はやく 大きな からだになれば 水はこびも らくになるのになぁ!」と 思いました。
ある日、ルドビーコは 妹のサラと さんぽをしていました。むこうの方から、5・6 人の 男の子が かけてきます。 「おい、ユダヤ人の においがするぞ。」「こいつらは かおは 人間のかおを しているけど、ほんとうは 犬なんだって。」「しっぽが あるかも しれないぞ。さがしてみようよ。」がまんできなくなった ルドビーコは、男の子たちに とびかかって いきましたが、はねかえされて しまいました。その男の子たちは ドイツ人の 子だったのです。ルドビーコとサラは 何もしていないのに ユダヤ人だというだけで いつも いじめられるのです。「ぼくは どうして ユダヤ人なんだろう。ほかの人と どこかちがったところが あるのかしら。ぼくだって、あのドイツ人の子だって みんな おなじ人間じゃないか。おかあさんは、いつも - 人は、みんな きょうだいですよ。なかよく しなきゃ - って いうけど、町にいるのは 人間なんかじゃない。ユダヤ人と、ポーランド人と、ロシヤ人と、ドイツ人と ・・・・・みんな べつべつの 人ばかり ・・・・・ それだけじゃないか。きょうだいなんかじゃない ・・・・・」ルドビーコは このときのことを いつまでも わすれることができませんでした。
ユダヤ人は およそ 2000 年ものあいだ 自分たちの国を もたずに ヨーロッパ中で、みんなに きらわれながら くらしてきたのです。じゆうに ひっこしをしたり、しごとをえらんだりもできず、ほかの人たちからは 犬のように あつかわれてきたのです。
町で けんかをするのは こどもたちばかりでは ありませんでした。おとなたちも あいての 話している ことばが よくわかりあえないために けんかをしました。それを見ていた ルドビーコは 考えました。「おとなになったら、こんな みじめなことのない せかいにして みせるぞ! それには まず みんなが いっしょに 話せてわかりあえる ことばが あればいいなあ!」
9 才のとき、ルドビーコは 中学校にはいりました。小さいときから おとうさんに 外国語をならっていたうえにべんきょうがとても すきだったので、クラスで一番 よくできました。入学してから まもなく ルドビーコは おもいびょうきに かかりました。やがてよくなり、町の中をあるけるようになったころ、こんどは妹のサラが もっと おもいびょうきになって、ある夜、とうとうしんでしまいました。「あの かわいいサラ。かわいそうなサラ。どうして しんで しまったんだ! サラ!」
自分で ことばを つくろう
14 才のとき、おとうさんが ワルシャワに しごとを かわったので、ルドビーコも ワルシャワの中学校に かわりました。この学校に はいるために おとうさんから むかしつかわれていたギリシャ語と ラテン語を ならいました。むかしからあり、いまはもう つかわれていない このことばを、ルドビーコは むちゅうで べんきょうしました。ルドビーコは こどものころの ビャウィストクでの できごとを、いまもよく おぼえていました。ことばが わかりあえないために、いつも けんかばかりおきていた あの小さな町のことを。「みんなが わかりあえるような ことば。それは どんな ことばだろう。」ルドビーコは 考えました。それは どこかの国のことばでは だめなのです。ポーランド人と ロシア人が話をするとき、それぞれが 自分の国のことばで話していては わかりあえません。また、ポーランド人に「ロシア語で話せ」というような めいれいは ポーランド人を かなしくさせることでしょう。「どこの国のものでもない ことば -- いったい どんなことばが いいのだろう。そうだ、ラテン語のように いまはもうつかわれていないことばは どうだろう。」と、ルドビーコは 考えました。しかし、ラテン語は とてもむずかしい ことばです。「よし、自分で どこの国のことばでもない、やさしい、おぼえやすい ことばを つくってみよう。」ルドビーコは 決心しました。
さいしょに考えたのは、あんごうのようなものです。でも これでは しゃべれないし、おぼえても すぐわすれてしまいます。「どうすれば いいのだろう。」ルドビーコは がっかりしました。でも あきらめないで、今までならった たくさんのことばを よくしらべて、どうやって あたらしいことばを つくりだそうかと 毎日まよっていました。ノ-トに つぎつぎと 書いてみたりも しました。そのうちに 学校で はじめて 英語をならいました。この英語のきまりは、今までに知っている どのことばより かんたんでした。ルドビーコは びっくりしました。「そうだ、ことばのきまりは できるだけ かんたんにしよう。」それからあとは わりにすらすらと はかどりました。それでもなんども はじめから やりなおさなければ なりませんでした。
とうとう あたらしいことばが できました。ルドビーコは 弟たちに このことばをおしえてみました。小さな弟たちでも かんたんに おぼえられました。
12 月のある日、おかあさんは このあたらしいことばと、ルドビーコの 19 才の たんじょう日を いわって、パーティを ひらいてくれました。 まえから あたらしいことばを つくるのに いろいろ助けてくれた友だちが あつまってきました。おかあさんは この日のために 大きなケーキを やいてくれました。「なんて すてきな ケーキだろう。」と、このあたらしいことばをつかって 10 才の弟が さけびました。 10 才のこどもでも つかえる ことばだったのです。「ばんざい! ぼくたちの ことばは いきているんだ!」みんなは かんげきしました。声をあわせて、このあたらしいことばでつくった うたを うたいました。そして、みんなで このことばを せかいにひろめようと ちかいあいました。
やくそく
ルドビーコと 友だちは 「せかい語」と 名づけた このあたらしいことばを ひろめようと しました。ところが、友だちの おとうさんや おかあさんは、そのことにさんせいしてくれませんでした。それだけでなく、「そんな ばかみたいな ことばかり やってないで、学校のべんきょうを ちゃんと しなさい。」とか、「ユダヤ人となんかと つきあってちゃ ろくなことが ありませんよ。」とか いいました。
それで、友だちは ひとり そして また ひとりと ルドビーコのそばを はなれていって しまいました。ルドビーコも おとうさんに よばれました。「おまえは 大学に入って りっぱないしゃに なるのだから いつまでも こんなことをしていてはだめだ。大学を そつぎょうするまでは、せかい語のことは わすれて しっかり べんきょうをしなさい。」と いわれました。ルドビーコは つらい思いをしながらも、そうすることを やくそくしました。そして せかい語のノートを、おとうさんに あずけました。「りっぱな いしゃになったら きっと このノートを かえして下さいね。」
こうして ルドビーコは モスクワ大学に 入りました。いしゃになるための べんきょうを つづけながらも あの せかい語のことを 思い出し、「あんな やくそくを、おとうさんと しなければよかったな。学校のべんきょうを しながらだって、せかい語の けんきゅうもできるのに……」と思いながらも ルドビーコは おとうさんとの やくそくをやぶることは できませんでした。ルドビーコは 2 年間 モスクワ大学で いしゃになるためのべんきょうを しました。しかし、このロシヤの モスクワという町や、知った人の ほとんどいない 大学を、ルドビーコは どうしても すきになれませんでした。かぞくのすんでいる ワルシャワの町が なつかしくて たまらなく なりました。それで、とうとう ワルシャワの大学に かわることにしました。ルドビーコは 2 年ぶりに ふるさとの ワルシャワに かえってきました。おとうさん、おかあさん、弟たち、妹たち、みんなに かこまれて ルドビーコは しあわせな きぶんに なりました。
「学校のべんきょうを しながら せかい語のけんきゅうもできます。ぼくは そうしたいんです。おかあさん、ぼくの せかい語のノートは、いま どこにあるのですか。」「ルドビーコ、あのノートはね…… おとうさんが もやしてしてしまわれたのですよ。おとうさんはね、おまえのためを 思って……」ルドビ-コの目から なみだが こぼれそうになりました。「ぼくは、2年間、あんなにがまんしてきたのに……」
ユダヤ人として いままで さんざん くろうして いきてきたおとうさんは、ユダヤ人が 犬のように あつかわれないで、人間らしい くらしを していくためには、大学を出て、いしゃになるしか道がない、そのためには、かわいいむすこに せかい語のことを あきらめさせようと 考えて、ノートを もやしてしまっていたのです。
ルドビーコは おとうさんの へやにはいって、2 年まえの やくそくを とりけして もらいました。 ルドビーコは 2 年間 やくそくを まもって くらしたのに、おとうさんは、やくそくを やぶって ノートをもやしてしまったのですから。それで、ルドビーコは せかい語の けんきゅうを つづけることが できるようになりました。
ノートは なくなっていても せかい語は ルドビーコのあたまの中に 全部はいっていました。なにしろ さんざん くろうしてつくったことばですから。
もういちど ノートに書きなおしてみると、このことばの わるいところを あちこちに みつけることが できました。それで わるいところは かきなおしたので、まえよりも よいことばになりました。ノートを もやされて、まえよりよいものが できたのですから、ルドビーコは むしろ おとうさんに かんしゃしたほどでした。
なやみ
ある日、町に かじがおきました。かねが なりひびきました。人々が 外に出てみると、かじはもうおさまっていましたので、みんなは なんだか だまされたような 気になりました。そんなとき、だれかが、「これは ユダヤ人が やったのだ。」と、いいだしました。「ユダヤ人を やっつけろ! ころしてしまえ!」人々は 手に ぼうをもち、ユダヤ人の家をこわし、ユダヤ人をなぐり、ころしたりしました。ルドビーコは、かぞくといっしょに 地下室に 2 日間も ふるえながら かくれていました。「ユダヤ人は どうして こんなめに あうんだろう。こんなたいへんなとき ぼくは せかい語なんか やっていて いいのかしら。」 ルドビーコは なやみました。
シオニズム という うんどうがありました。それは、せかい中にちらばっている ユダヤ人が あつまって、自分たちの国をつくろう、という うんどうのことです。ルドビーコは、自分たちの国さえあれば、こんな みじめな思いを しなくてもよいのだ、と思い だんだん このうんどうに ひかれるようになりました。
このうんどうのために ルドビーコは おおいに はたらきました。しかし、ルドビーコの めざしているのは、せかい中が へいわになることだったのです。それなのに、ユダヤ人という ひとつの みんぞくのことだけ 考えていて いいのだろうか。ルドビーコは また 自分の せかい語にもどっていきました。やがて 大学を そつぎょうした ルドビーコは ワルシャワの町を はなれて、いなかへ行って いしゃのしごとを はじめました。
やさしくて ひょうばんのいい、おいしゃさんでした。まずしい人々からは お金を うけとらないで、びょうきを みてあげました。しかし、やさしすぎた ルドビーコは、おもい びょうきの人に いしゃとして 何もしてあげられないで、その人がしんでいくのを、じっとみていることが、たまらなく なってきました。むかし、かわいい妹の サラが しんだときのことが、思い出されて くるのです。「ぼくは いしゃに むいてない。でも いしゃをやめてしまったら せっかく大学にいかしてくれた おとうさんや おかあさんが、どんなに かなしむだろう…… そうだ、目のいしゃになろう。目のびょうきで しぬことも ないだろう。」ルドビーコは ワルシャワの大学にもどり、目のいしゃになるための べんきょうを しました
希望
する人
そのころ、ルドビーコは クララ・ジルベルニクという 女の人を すきになりました。クララのおとうさんは ルドビーコの あたらしい ことばのことを きいて とても かんしんしました。このときには このことばを もう せかい語とよばずに 国際語と よんでいました。この 国際語を みんなに しってもらうためには、本をださなければ なりません。それには お金がいります。おかねもちの ジルベルニクさんは そのお金を だしてあげよう、と いいました。
こうして 1887 年、ルドビーコが 27 才のとき 国際語の本が 出ました。ルドビーコは この本を 「エスペラント博士」という ペンネームを つかって 出しました。それで この国際語は のちに 「エスペラント」と よばれるように なりました。「エスペラント」とは 「希望する人」という いみです。ルドビーコは せかい中の人が なかよくするのを 希望していたのです。そして ほとんど おなじころ ルドビーコは クララと けっこんして、目のいしゃに なりました。
この 国際語の さいしょの本が 出されたので、あちこちに おくったり、ほんやさんに はこんだりで ルドビーコも クララも 大いそがしです。そのうちに あちこちから ルドビーコのところに てがみがくるように なりました。「このことばは いままでにつくられた中で 一番 よくできています。覚えやすく はなしやすく、聞いていても とてもきれいに ひびきます。きっと いつか このことばは せかい中に ひろまり、みんなは このことばで 話すように なるでしょう。」ルドビーコは へんじを かいたり、この 国際語 エスペラントのざっしを つくったりで またまた いそがしく なりました。
こどもが つぎつぎと うまれました。くらしていくためにも、エスペラントのためにも お金が いります。ところが エスペラントの しごとが いそがしすぎて、目いしゃの しごとの方は うまくいきません。あちこちと ばしょをかえて やってみましたが それでもだめです。ついに しばらくは エスペラントのしごとを やすむことにし、ひっしになって 目いしゃの しごとに うちこみました。 4 年間 がんばり やっと くらしていけるようになり、ほっとしました。エスペラントが 世に出てから、ルドビーコが けっこんしてから、もう 14 年も たっていました。
この 14 年のあいだにも エスペラントは ひろまっていき、とくに フランスでさかんに なりました。エスペラントの本もつぎつぎと でました。みどりのほしが エスペラントのしるしに きまりました。エスペラントをつかう、エスペランチストは むねに みどりのほしを つけるのです。
ブーローニュ・シュル・メールで
そのうちに フランスの エスペランチストが 中心になって エスペラントの せかい大会が ひらかれることに なりました。フランスの ブーローニュ・シュル・メール という町に せかい中 -- といっても、そのころは ほとんど ヨーロッパだけでしたが -- せかい中から エスペランチストが 700 人近く あつまりました。エスペラントを つくった人、ルドビーコ・ラザロ・ザメンホフも、長いあいだ いっしょにくろうしてきた つまの クララといっしょに ワルシャワから 出かけて いきました。せがひくく、めがねをかけ、年よりふけたかんじの ルドビーコは、おずおずと みんなの前に たち、えんぜつを しました。 今までの くろうを 思うと なみだが 出そうに なりました。「せかい中から ここにあつまってこられた みなさん、人と人が なかよく 手をつなぐために ここにこられた みなさん。つよい国の人も、よわい国の人も みんな きょうだいのように 手をつなげるよう、どんな むずかしいことも のりこえて がんばりましょう。エスペラントは もう 私だけのものでは ありません。みんなのものなのです。」えんぜつのあとの 拍手は いつまでも つづきました。このえんぜつも、ほかの はなしあいも、みんな ひとつのことば、エスペラントで おこなわれました。こうして 1905 年に 第 1 回世界エスペラント大会が ひらかれたのです。それからも 毎年 いろいろな国の いろいろな町で、世界大会が ひらかれるように なりました。
エスペラントに ほんやくされた せかいの名作も つぎつぎに出ました。アンデルセンの どうわも 出ました。 聖書も出ました。ヨーロッパから とおくはなれた 日本にも エスペラントは はいってきました。 第 4 回世界大会には、日本人が ふたり はじめて さんかしました。
もうひとつの しごと
ルドビーコが いちばん ねがっていたのは せかい中の人が なかよく くらせる よの中になる ということでした。そのために、おたがいに よく知りあえるよう 国際
語・エスペラントをつくり、それを ひろめるために はたらきました。しかし せかいの人が エスペラントで 話をしただけで、みんながなかよくなる、というわけには いきません。それで、エスペラントのしごとが うまくいきはじめてから、ルドビーコは、もうひとつの しごとを やりはじめました。ルドビーコは みんなに よびかけました。
「国がちがっても、ことばが ちがっても、みんな しんじるかみさまがちがっていても、くらし方が ちがっていても、みんな 人類
という ひとつのかぞくの中の ひとりです。せかい中の人が、ひとつのかぞくとして まとまり、なかよくしましょう。」この考え方を ルドビーコは ホマラニスモ (人類主義
) と 名づけました。ルドビーコは このホマラニスモの 大会を ひらこうと しました。しかし そのころ せかい中は いまにも せんそうが おこりそうでした。
かなしみ、そして、死
第
10 回
世界
エスペラント大会は パリで ひらかれる よていでした。 3700 人いじょうの人が もうしこんで いました。ルドビーコも さんかするために クララと いっしょに ワルシャワから 汽車にのり、パリにむかいました。ところが ドイツのケルンまで来た時、ドイツと ロシアのあいだに せんそうがはじまりました。それより さきへは すすめなくなり、やっとのことでワルシャワに もどって きました。せんそうが ますますはげしくなり、ワルシャワも ドイツ軍に せんりょうされたころ、ルドビークは びょうきに かかりました。せんそうのあいだ、わかい エスペランチストが つぎつぎと しんでいきました。 30 年ものあいだ、いっしょうけんめいにやってきた エスペラントうんどうも だめになり、ルドビーコはかなしみました。そして、せんそうが はじまって 3 年たったころ、ルドビーコは、かなしみの中で しにました。ふたたび エスペラントうんどうが わきおこるのを みないまま、ホマラニスモの大会が いちども ひらかれないままなのを気にしながら……、そして せんそうが おわるのも 見ないまま しんでいきました。 1917 年 4 月 14 日のことでした。
平和をねがう ことば
やがて このせんそう (第 1 次世界大戦) も おわり、ふたたび エスペラントうんどうは さかんになりました。また 世界大会もおこなわれるようになりました。ルドビーコが しんだあとも クララは ひとりで 大会に でかけていきました。そして ルドビーコが しんでから 7 年のちに クララも しにました。
その後、20 年くらいは 大きなせんそうも ありませんでしたが、ちょうど みなさんの おとうさんや おかあさんのうまれたころ、こんどは 第 2 次世界大戦が おこりました。せかい中で多くの人が しにました。 広島や長崎には げんしばくだんがおとされました。ルドビーコの ふるさとは どうなったのでしょう。ヒットラーのしはいするドイツは、ユダヤ人を みなごろしに しようとしました。ルドビーコの こどもたちも ほとんど ころされました。かぞくの中でようやく いきのこったのは まごの ルドビーコと、そのおかあさんだけでした。こんな せんそうも やっとおわり、エスペラントうんどうも また いきを ふきかえしました。毎年 世界エスペラント大会が いろいろな国で 開かれています。日本でもひらかれました。エスペラントでの てがみのやりとりや、りょこうも さかんです。本も たくさん 出ました。
ルドビーコ・ラザロ・ザメンホフ、この ひとりの、せのひくい、あたまのはげた、めがねをかけた、ユダヤ人の目いしゃが、心から へいわを ねがって、いっしょうけんめいに つくりあげたひとつの うつくしい ことば、これが エスペラントです。これは せかいの へいわを ねがう ことば なのです。
- おわり -
お母様方へ
この本は、国際語エスペラントの創始者、ルドビーコ・ラザロ・ザメンホフの一生を子供むきに書いたものです。小学校の3年生以上を対象にして書きました。
エスペラントが発表されてから、今年 (1985 年)で 98 年になります。あと 2 年で、このことばは 100 才3 になるわけです。
民族間のにくしみ、あらそいをのりこえ、世界の人類が手を取り合って暮せたら、 ―― その一つの手段として、ザメンホフはエスペラントを創ったのでした。
しかし、この一世紀は、ザメンホフの願いもむなしく、二つの大きな戦争の他にも、小さな戦争や紛争のない年はなかった、といえるほど、争いに満ちた年月でした。そして、エスペラントも、その争いの波にいつもまきこまれ、おしつぶされそうになりながらも、各地の辛抱づよいエスペランチスト達のどりょくにより、その小さな灯は、消されることなく、今日までもえつづけてきたのです。
他にもたくさんあった国際語・世界語の中で、エスペラントだけが、ただひとつ、現在もいきつづけているのは、この言語が美しい、すぐれた言語である、ということの他に、創始者ザメンホフの平和への願いが、常にエスペラントと共にあったからだと思います。その願いは、素朴で、あまりにも素朴であるために、現代のようにこみ入った社会では、相手にされないで、馬鹿にされたりします。しかし、現代のような世界だからこそ、力をもつ者が尊重され、その力と力の対決の世界だからこそ、ひとりひとりではまったく弱い人達の平和への願い、ザメンホフの願いは大事にされなければならないと思います。そして、国と国、民族と民族のみえないかべを打ちやぶって、心と心をつなぎ合う必要があると思います。
ザメンホフのこの素朴な願いは、子供の頃、ポーランドの小さな町、ビャウィストクで、見たり、体験したりした時に芽生えたものです。それだけに、子供にもとてもわかりやすいもの、いや子供だから大人よりも素直にわかるものだと思います。私は、私の子供たちにザメンホフのことを、エスペラントのことを 知ってもらいたい、そして私と同年輩の仲間の子供達も、やはり同じ年頃なので、彼等にも このことを知ってもらいたい、と思って 7 年前にこれを書きました。そして、親がエスペランチストでない子供達にも、やはり読んでもらいたいと思って、5 年前に私たちの町横浜で行われた第 67 回日本エスペラント大会の際に、本の形にしました。その後 5 年が過ぎて、この本を再版することになりましたが、この 5 年間の世の動きの中で、エスペラントの必要性を私は更に痛感しています。 100 年以上も前にヨーロッパの小さな町で、力の弱い少年の心に芽生えた願いが、国境を越え、海をこえて、年月をこえて、この本を読んだ子供達の小さな胸の片隅にそっと宿ることを希望して。
1985 年 8 月
土居 智江子