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他の報告
Aliaj Raportoj



会場設営
山田義
 会場の飾り付けは、ほぼ会場全館を借り切ったのでエントランスホールの吹き抜けに8メートルの“緑色垂れ幕”を2本下ろすことができた。催事を多く手がけている「文字工房」さんにデザインと制作を依頼した。閉会式後この緑色の不織布を撤収しているとき、廃棄の方法をどうしようかと迷っていると、鈴木恵一朗さんが引き取ってくれた。今後はヨコハマで形を変えて利用されるだろう。
 フロイデホールの横断幕は、犬山大会のシンボルカラーである青で文字を書いてもらった。その下の緑星旗は閉会式でゆっくりと下ろして畳むプログラムがあるので取り下ろしのしやすい方法で取り付けを工夫した。
 準備の最初から大会ポスターを作るように永瀬義勝さんから勧められた。松本祐子さんの友人のデザイナー、ひなせ唯さんに、壇上で司会をしている姿をイメージした女性像をパソコンで描いてもらった。それをポスターに配置した。犬山城の下を流れる木曽川が日本ラインと言われることから、マスコットの名前を委員会でRejna と名付けた。2年前の福島大会でも掲示した。犬山ではポスターは会場のエレベーターの中に貼りだしたり、犬山駅での会場案内にもこのポスターを目印に使った。
 大会マークは私がデザインし委員会で承諾を得た。その大会マークをシールに用いるとき、郵趣家の鈴置二郎さんがシールとしてのデザインを指導してくれた。また記念スタンプを犬山郵便局に申請したがこのデザインを元にスタンプ用にアレンジした。山本修さんと前川治哉さんが郵便局と何度も折衝して出来上がった。デザインの意味は、左右対称のタテの棒は平和を奏でる楽器、全体の円は地球、星はもちろんエスペラントだが、地球儀の犬山の位置にその星を配したつもりだ。大会名と開催の日付と地名をエスペラントで記した。


器材準備について

藤木修三
 突然、巡ってきた機材準備の係りでしたが、もっとプログラムを頭に入れておくべきだったと後悔しました。どなたがどんなプログラムで、パソコンやプロジェクターを使うのか?次はどの部屋でどなたがプロジェクターを使うのか?分からずにかなり慌てました。ただ、それがきっかけで小林・萩原両先生と沢山お話しできたのは、とてもラッキーでした。また閉会式で、次回の横浜のLKKの方々とも話せたことも楽しかったです。お礼を言われた時はとても幸せでした。ありがとうございました。


宿泊
Akira
 大会会場の周辺には、単独では大会宿舎として充分な収容力を持つ宿舎は見あたりませんでした。しかし、犬山駅周辺の3つのビジネスホテル、犬山国際ユースホステル、公共の宿舎「サン・パーク犬山」など、いくつかの宿舎を合わせれば、充分であるという見通しが立ちました。条件の異なる複数の宿舎でLKKが受け付けるのは非常に複雑な仕事になるので、「サン・パーク犬山」のみ受け付けることとして、他のホテルは必要な情報を提供して、参加者各自に任せることにしました。
 当初からこのことは大会報などに掲載してあったのですが、「宿泊予約はしたけれどどこに泊まるのか分からない」という人が何人かありました。分かりやすく報せることの難しさを感じました。
 6月30日に締め切った時点では予定人数を超えていましたが、10月に入ってキャンセルが相次ぎ、宿舎との、「全館借り切るために70人以上」という線を割ってしまいそうになり心配しましたが、最終的に何とかクリアしました。
 少し大会会場から離れていましたが、ほとんどの方は歩いて往復されていたようでした。談話室も一部屋確保し、借り切りに出来たのでロビーなども自由に使えて、宿泊者のみなさんには十分満足いただけたと思います。
 大会報などであらかじめ書いてあったことですが、この宿舎は食事をしなくても割引にならないので、とくに土曜日の夕食を他の場所で取った方には不満が残ったかもしれません。
 料金は、6800円に税金・サービス料を加えて7854円だったので、切りよく8000円にしたのですが、事務手続き上のミスや特別室・洋間の付加料金があって、少し赤字になってしまいました。
 最後に、国民年金加入を示す書類持参で割引になるという連絡を、直前情報まで出していなかったことを、お詫びします。


大会中の弁当

黒柳 文子
 大会会場の地下にはレストランもあり、駅の近くには飲食店が多くあるので、選択もできるが、大会中の昼食は参加者の人数が多いと予想され、同時に全員が食べることを想定して弁当の注文も受けることにした。
 好みがいろいろあることを考えて2日間とも同じ業者にはしなかった。
 10月23日(土)  151個  弁当とお茶(ベントマン)
   24日(日)  163個  弁当とお茶(たごさく)
 初日は1種類で量はやや多め、次の日は、3種類で、量は幾分少なめであった。どちらも好評であり、安心した。
 弁当箱は、分別すれば回収するというのは2社とも同じだったが、対応はかなり異なった。ベントマンは袋も用意してきて2時半ごろには回収にきてくれた。たごさくは袋もこちらで用意し、回収後もこちらから返しに行った。
 2日間とも千田さんをはじめ弁当係の方たちの手際の良い働きで、廊下に弁当空やペットボトルがちらかることなく気持ちよく整理され片付けられた。
 準備としては、曜日で色を変えた弁当の引換券を用意し、個別に名札ケースに入れた。早めに注文を締め切ったが、直前まで注文、キャンセルがあって、業者への数の連絡と名札ケースに入れる作業が混乱した。


Kongreslibro
Akira
 まず過去の大会の Kongreslibro を調べて、ほぼその形式を踏襲することにしましたが、大会会場で初めて手にするものであり、分かりやすいものにすることを心がけました。とくに初心者が読みやすいように、プログラム紹介をエス文・日本語文対照にしました。原稿提出の段階では2言語で書くことを必ずしも義務づけていませんでしたので、あとから依頼したこともありましたが、関係者の協力で、順調に原稿が集まりました。すべてのプログラムに番号を付けて整理したので、プログラム表と案内文の参照がしやすいものになったと思います。
 第一稿ができあがったのが9月11日、それから数人でメールを交わしながら校正作業をしました。製本を簡単にするためにホチキスで製本することにしたため、編集作業が完全に終わらないと印刷にかかれませんでしたが、なんとか10月1日に印刷にこぎつけました。原版はレーザープリンタですが、経費を節減するために、ある施設のリソグラフを使用しました。製本は10月2日、数人が集まって1日半かかったことになります。

 大会には5人の盲人が参加申し込みをしていたので、点字版の Kongreslibro も作ることにしました。まず、点訳を引き受けてくれるところを探さねばなりません。最初は、名古屋市の名古屋盲人情報文化センターを訪ねてみました。しかしここで頼むと数十万円の費用が必要だということが分かりました。名古屋市の盲人エスペランティスト、中村進さんを中心に自力でも出来ないことはありませんが、限られた時間では困難です。
 さいわい、犬山市に点訳グループ「ルイ」があることが分かり、お願いしたところ、快く引き受けていただきました。8月末に参加者名簿の原稿を渡し、ほぼ校正が終わった9月15日に残りの原稿を渡しました。短期間の作業でずいぶん負担をかけたと思いますが、我々の気づかなかった間違いまで見つけていただき、最後は発送までしていただきました。さらに、1名の盲人が当日参加予定と分かったので、1部を追加して作っていただきました。大会には、メンバーの方たちが一般参加で来られました。
 いままでエスペラントとは全く関係のなかった人たちにお願いしたので、エスペラント文の点訳は出来ませんでしたが、大会報告書は、エスペラントと日本文が混在する予定なので、中村さんを中心に我々で作ろうと思っています。


Al la Gxojo「エスペラントで歌う"歓喜の歌"」B5判,65p. 
山田 義
 大会を記念して BELTONO が出版した。
 ベートヴェンの交響曲第9番の終楽章の「フロイデ」として知られる「合唱」。これをエスペラントで歌えるようにしたい。エスペラントの4部合唱にピアノ伴奏が付いた楽譜がほしい。シラーの詩をカロチャイがエスペラントに訳した訳詞の存在は知られている。ベートヴェンの曲に歌えるようにするには工夫が必要であり小西岳さんが楽譜に合わせて歌えるように補作した。巻末に小西岳さんの解説がある。
 カロチャイの訳詞の著作権に関しては峰芳隆さんが世界を駆け回って(インターネット上)クリヤーしてくれた。大会のひと月前に許可が取れた。
 発刊を一旦はあきらめたが、今回を逃したら出版の機会はないだろうと励まされ、当面100部だけ仕上げた。300部まで制作の準備が整っている。あのバリトンの歌い出し、O
Freunde, nicht diese Toxne! [独] はエスペラントでは Ho karaj, ne tiajn tonojn! から始まる。この歓喜の歌を ESPERANTO で歌ってほしい。この終楽章について今まで日本語の訳詞や解説を読んでも理解できなかったことがこの名曲のエスペラントの楽譜ではっきりと会得できるだろう。
 大会終了後、発行部数の半分はすでに人の手に渡った。KLEGやJEIで取り次ぐ。


LKKのサロン 音調館が展示
山田 義
 2年前から大会記念シールを作るようにと、郵趣家の前川治哉さんから勧めがあり、大会マークと Rejna
をあしらったシールを音調館が発行した。大会前から La Revuo Orienta や la Movado でも話題になった。売上げに応じてマークと
Rejna 図柄の使用料を音調館からLKKに支払うことになっている。
 大会記念ハガキと大会記念封筒を音調館が発行した。大会中これを使って文通相手に差し出す人が多かった。大会記念ハガキは八百津の人道の丘に建つ“平和を奏でるモニュメント”を私が撮った写真に
DECIDO PRO AMO の表紙をあしらった図柄だ。表には大会マークと POSxTMARKO を印刷した。大会記念封筒には Akira さんが川船から撮影した夕日に映える犬山城と大会マークをあしらった。素材の角封筒は郵便番号枠の無いものを選んだ。どちらも300枚作った。


F-ino KIEU とベトナムコーヒー、民芸品
Akira
 望月大会以来、ハノイからは何人かの若いエスペランティストが日本を訪問したが、ホーチミンからはまだ来ていなかった。私が2001年にホーチミンを訪れた時、老若たくさんのエスペランティストに世話になった縁もあり、ホーチミンのエスペラント会(VEAdH
... Vjetnama E-Asocio de
Ho-Chi-Minh)に、一人招待することを申し出た。条件は、あまり高齢でないこと、エスペラントがある程度出来て、ベトナムでのエスペラント運動について話せることとして、人選はVEAdHにまかせた。そして選ばれたのが、F-ino
DUONG TU KIEU さんである。彼女は、ホーチミンの若手グループのリーダー的存在で、またこの地を訪れる外国人エスペランティストを世話する中心でもある。私もそうだが、他にも彼女の世話になった人がいると思う。
 招待をしたのは私個人であるが、この機会に出来るだけたくさんのエス会や日本人エスペランティストと交流できるよう、1か月半ほどの日本旅行を計画した。私が心配するまでもなく、各地のエス会や個人が快くお世話を引き受けてくださり、あっという間に旅行計画が出来てしまった。
 ホーチミンでおみやげにいただいたベトナムコーヒーがとても美味しかったので、同じものを少し持ってきてくれるように頼んだのだが、そこにKieuから、民芸品を持っていけば日本のみなさんに喜んでもらえるのではないかという提案があった。それで思いついたのが、サロンのLKKスタンドでの、ベトナム民芸品とコーヒーの提供であった。さいわい、どちらもとても好評であった。ベトナムコーヒーの独特の香りと味わいに魅せられた人も多かったと思う。私は、中部ベトナムの激戦地、ケサン基地の周辺が広いコーヒー畑になっていたことを思い出しながら、このコーヒーを味わっている。


Henryさんのこと
Akira
 犬山市に開催地を決定した時から、LKKではこの地にエスペラントの種をまく方策をいろいろ考えてきた。その一つとして、犬山市の姉妹都市・友好都市との交流を考えた。2つの友好都市、中国の湖北省襄樊(じょうはん)市とドイツのザンクト・ゴアルスハウゼン市にはエスペランティストを見つけられなかったが、姉妹都市、アメリカ・カリフォルニア州のデービス市にはエスペラント会があった。その会長がHenryさんである。彼は熱心なエスペランティストで、すでに、犬山市に隣接する扶桑町の学習グループ「Rondo SONKISOJ」のメンバーとメール文通をしていた。
 2002年6月、私たちは Henryさんとメール交換を始めた。彼は犬山市民へのエスペラント普及や交流に強い意欲を示した。そして、彼の「犬山市民への手紙」が、犬山市国際交流協会の機関誌「IIA NEWS」(9月10日付、発行部数900) 2003年4月号に載った。この号には、第1回犬山エスペラント講座の案内も同封して配布された。
 「日本への旅費などは出せないが、日本大会に来ませんか」という我々の誘いに、彼が応えて、来日が決定したのは2003年の12月。そして、日本大会での「ヘンリーさんと話す」一般公開の番組が実現した。
 21日の夜に名古屋空港に出迎え、恵那に1泊していただいたが、翌日の早朝には大会場に移動したので、主に車の中で話したのみだが、几帳面だが気さくで好奇心の強い人という印象である。


犬山エスペラント講座

Akira
 日本大会を犬山市で開催すると決めたのは2002年の5月でした。その時点で、犬山市にはエスペラント運動が事実上ありませんでした。私たちはこの地にエスペラントを根付かせることを大会開催のひとつの目標と考え、「フロイデまつり」への参加、犬山国際交流協会への参加、姉妹都市との交流など様々な活動をしましたが、その中心的な企画として、入門講座を開くことにしました。

 第1回犬山講座
 期間:2003年5月11日〜6月29日、毎週日曜日、19時〜21時。
 教材:「エクスプレス エスペラント語」 講師:Akira 会場:フロイデ
 毎回20〜60分程度、エスペラントに関する小講演を行い、そのあとにテキストにしたがって講義をしました。小講演のテーマと講師は以下の通りです。
  5-11 エスペラントとは何かー英語の教師が保障する エスペラントの面白さ」 堀泰雄
  5-18 外国語学習とエスペラント」米川五郎
     「文通、交流」山田シマ子
  5-25 パスポルタセルボ」黒柳吉隆
     「エスペラントと歌」山田義
  6-  1 「エスペラントと仏教」山本修
  6-  8 「ザメンホフの話」猪飼吉計
     「エスペラントと歌」山田義
  6-15 「エスペラント会話上達法」田平正子
  6-22 「エスペラントの短波放送」清水正弘
  6-29 「エスペラントとインターネット」長谷川勉
 講習会費:1200円(教材別途)、ただし、1回だけ小講演を聴く場合は200円。
 以上の条件で受講生を募集した。犬山市の国際交流協会機関誌にチラシを同封し、この地方の7つの新聞社にも行事告知等への掲載を依頼しました。分かっている範囲では、朝日新聞と、尾北ホームニュースに掲載されました。
 受講生は全部で13人でした。1人は1回だけの参加、4人は近くの学習サークル「Rondo SONKISOJ」のメンバー、1人は中級者、残りの7人は、以前学習したことのある人もいましたが、新しい人たちでした。
 講義終了後、継続して学習会を開きたかったのですが、みなさんの条件を合わせるのが難しくて実現しませんでした。7人の中から1人が「Rondo SONKISOJ」に参加、2名が沼津の通信教育を受けることになりました。

 第2回犬山講座
 期間:2004年5月9日〜6月22日、毎週日曜日、19時〜21時。
 教材:「エクスプレス エスペラント語」 講師:黒柳吉隆 会場:フロイデ
 講習会費:1200円(教材は別途)
 今回は、新聞社への掲載依頼の他、犬山市広報にも案内が掲載されました。受講生は3人でしたが、みなさん熱心でした。終了後、テキストを最後まで続けることにしましたが、3人のうち2人は参加することが出来ず、第1回講習会の受講生からあらたに2人が加わって、3人で継続講座を行いました。会場も費用のかからない「丸山共同学習施設」に移し、時間も15:00〜17:00に変更しました。途中、講師の世界大会参加などで1か月以上の中断もありましたが、8月29日に「エクスプレス エスペラント語」を終了、9月からは日本大会の「演芸の集い」の紙芝居の練習に入りました。大会当日は、なかなかの出来映えで、本人たちも満足したことと思います。大会サロンでは、受講生のみなさんが熱心に本を見て歩き、何冊も手にする姿がみられました。
 日本大会後は、月2回集まることにして、そのうち1回は自分たちだけで学習会をすることになり、その第1回が11月7日に行われました。
 なお、継続学習に参加できない他の2人も学習意欲は強く、そのうちの一人は、高校生の娘さんとともに日本大会に参加し、helpantoj として頑張りました。
 また、日本大会に参加した市民の一人が、学習を希望されており、何らかの形で次の講習会を開く予定です。
 必ずしも全員が市内在住ではないこともあり、犬山市にエスペラント会が誕生するのはまだまだ先のことかもしれません。今後も出来るだけの援助をしていきたいと思います。


会計
Akira
 実行委員会を立ち上げた時は、会計については全くなんの見通しも立てられなかった。私にとって、東海大会の会計の経験はあったが、エスペラントも含めて大きな行事の会計係は初めてのことであり、他の実行委員も日本大会の経験がなく、その後も正確な予算案は立てられなかった。そのため、私が実行委員会に提出した資料は、常に「予算見通し」と表現した。もちろん、大会に付随する部分(遠足、宿泊、弁当、写真など)は独立採算の計画を立てたし、宿泊以外は達成した。
 当初、私はこの大会が大幅な赤字になるだろうと予測した。実行委員会が個人の集まりであり、かなり広い地域から集まるために、交通費がかなりの額になるからである。もし、中核になるエスペラント会があれば、その例会を利用して実務的な仕事も出来るだろうが、我々の場合、何をするにも、そのために集まらなければならない。実行委員会としても、交通費は大会後に、会計の状況に従って支給すること、食費・日当・宿泊費等は支給しないことなどを確認せざるを得なかった。これまでの他の大会はどのように運営されたのであろうか。
 実行委員を買って出たみなさんは、当初から交通費の支給などは頭になかったと思う。しかし私たちは、全く無報酬の好意にだけ頼った大会運営しかできないようではいけないと考えたし、出来るだけ交通費の全額支給をめざそうと考えた。実は、「赤字なら、KKKが補填する」という条件を提示されてはいたが、それに頼るのはどうしようもなくなった場合であって、基本的には収支のバランスが取れるようにするべきであろう。
 さて、大会会計であるが、参加費以外に、多くのご寄付をいただいたこと、犬山市から会場費の補助がえられたことに加えて、講演・国際交流費等には大幅な出費がなかったこと、Kongreslibro やこの報告書は業者に依頼せず、印刷から製本までLKKが全く自力でやってしまったこと、等々の努力もあって、現段階で少なくとも赤字にはならない見通しが立ってきた。この面でも、大会が成功したといってよいと思う。
 さらに、私たちには大会運営以外に二重の意味で新しい運動を作り出す課題があった。ひとつは、LKKがいわば寄せ集めの組織であり、何もないところからスタートしたために、大会運営だけでなく、限られた期間ではあるが独自の活動を作り出す必要があったこと。そしてもうひとつは、その運動の中心的な課題として、大会開催地・犬山の地にエスペラントを根付かせること。この課題を解決する活動が結果的に、日本大会を側面から、そして下から支えることになるのだが、それは大会運営そのものではない。それで、大会運営とLKK独自活動を区別し、会計も全く別個のものとした。犬山エスペラント講座や、「フロイデまつりへ」の参加、犬山国際交流協会への加入、「DECIDO PRO AMO」の発行、大会サロンでのLKKスタンドなどがそれにあたる。

(Ekstra programero)
Ni gxuis tagmangxon kaj renkonton --- Jubilea tagmangxo-kunsido por atingi 1000 lernantoj de Numazu Koresponda Kurso ---
Raportanto: Oonisi Micxiko
En la 23a de oktobro, 12 gelernantoj kaj gvidanto kolektigxis en la restracio "Granz" sub la kongresejo. Kiam mi trovis konatojn, ni gxojis revidi  premante manojn unu de la alia. Cxiuj partoprenantoj lauxvice salutis kaj sinprezentis Esperante. Kelkaj el ili parolis flue kaj aliaj malrapide.   
Iu virino, kiu jxus finlernis elementan kurson, sinprezentis lauxte kaj klare. Sxi diris, ke sxi parolis unuafoje antaux la aliaj. Ni cxiuj aplauxdis sxin. Post sinprezento ni babilis japane mangxante tagmangxon.
En la babilado mi sciis, ke cxiuj homoj havis problemon pri tempo-manko de la lernado. Iu diris, ke ju pli oni estas okupita des pli multe trovas lerno-tempon.
Post kelka tempo du sinjorinoj, kiuj estis zorgantoj de la kongreso, devis forlasi nian kunsidon por preparo posttagmezan programon. Ili ne povis trinki ecx kafon post la mangxo.  Posttagmeze ili aktive laboris kiel prezidanto aux organizanto en la kongreso. Mi pensas, ke aktiva agado de la kurso-membroj de tiu cxi Koresponda Kurso estas bonega.
Mi pensis, ke estis bone pli multaj lernantoj povis partopreni en cxi tiu kunsido.  Cxar mi sentis, ke nombro de partoprenantoj sxajnas malmultaj por atingi 1000 lernantoj. Nia gvidanto s-ro Huzimaki cxiam auxskultis milde nian parolon kun rideto.


Premio Ossaka 小坂賞
 「小坂賞」は、日本エスペラント学会(JEI)創立者で日本のエスペラント運動の父、小坂狷二氏の功績を記念して、エスペラントの発展に貢献した個人または団体に贈られます。1938年、小坂狷二生誕50年を機会に制定されました。毎年、候補者を公募し、小坂賞委員会が受賞者を選定し、日本エスペラント大会の場で授賞されます。

Premio Ossaka
La premio Ossaka por 2004 estis aljugxita al s-ro Hori Yasuo, pro la agado por la azia movado, i.a. kiel la Prezidanto de la Komisiono pri Azia Esperanto-Movado (KAEM) de UEA, kaj pro lia verkado de Raportoj el Japanio, kajeroj 1 gxis 7, prezentanta Japanion en la internacia lingvo.

小坂賞
堀 泰雄 様
 UEAのアジアエスペラント運動委員会(KAEM)を中心としたアジアでのエスペラント活動を支えた功績、及び著書 Raportoj el Japanio 1-7で日本紹介を続けていることを讚え、2004年度の小坂賞を贈呈いたします。
la 24an de oktobro 2004
Sibayama Zyun'iti (La prezidanto de Japana Esperanto-Instituto)
財団法人 日本エスペラント学会 理事長 柴山 純一

鈴木 ますみ
 2004年度の小坂賞の受賞者に群馬県前橋市の堀泰雄さんが選ばれました。授賞の理由は二つです。一つは2001年以来、KAEM(世界エスペラント協会のアジアエスペラント運動委員会)の委員長を務めて、ソウルでの第3回アジア大会の成功、ネパールでの第4回アジア大会の準備などで奮闘してこられたこと、またその機関紙Esperanto en Azio の編集に携わってきたことが評価されたものです。もう一つの理由は Raportoj el Japanio の著作による日本紹介です。堀さんは同名の随筆を1991年から書き始め、1997年にはそれまでのものをまとめて出版(出版元はリブロテーコ東京)、それ以来毎年1冊ずつ執筆を続け、現在7冊になっています。日本人は受信ばかりで発信がないと言われますが、堀さんのこの著作はエスペラントによる世界への発信で、日本を世界に、そして新しいエスペラントの可能性を追求したもので、その点が高く評価されました。今後の健筆ぶりに更に期待したいものです。
 堀さんはその他様々な活動に参画しています。日本エスペラント学会の理事で La Revuo Orienta の編集長として毎月の特集を産み出し、関東エスペラント連盟と教職員エスペラント協議会の事務局長、全国エスペラントセミナーの講師、更に『国際語エスペラントへの招待』で編集の中心を担うなど、日本のエスペラント運動になくてはならない人になっています。

受賞者のことば
堀 泰雄
 授賞理由が、「アジアのエスペラント運動に貢献した」ことと「『日本からの報告』で日本を世界に紹介した」の2つになっています。しかし「アジアの運動に貢献」という理由は、素直には受け取れないような気がします。というのは、アジアの運動の発展は、日本では前役員の竹内義一さんや東海林敬子さんの功績で、私はそれを引き継ぎ、まだ暗中模索の状態で、とても成果を上げたとは言えないからです。また、運動は一人でできるものではなく、多くの方の支援があってのことで、よしんば私に功績があっても、私が受けるべきものなのか、疑問が残るからです。しかし私としては「もっとがんばってやれ」という鞭撻の意味での授賞と考えることにしました。
 『日本からの報告』は、まあ受賞に価するかなと考えていますが、10冊出したころがふさわしいのではないかと思っていました。3年早すぎたか、という気持ちですが、ありがたく頂くことにしました。『日本からの報告』を書き出したのは、エスペラント学力向上の方策としてでしたが、日本人が受信ばかりで発信しないということも意識しました。書き出したのが1991年、本になって第1巻が出たのが1997年、予想外に評判も良く、その後毎年出版してきて、今年で7冊目になりました。しかしこれも皆さんの支援のお陰で、校正を担当してくださっている私のフランスの友人 Paul Signoret さんや田平正子さんほか、そして赤字覚悟で出版してくださっているリブロテーコ東京の東海林敬子さん、そして何より買って読んでくださる皆さんのお陰と本当に感謝しています。2010年が執筆から20周年になるので、それまで何とか書き続けたいと思っておりますので、私も皆さんもそれまで元気でいたいものです。
 私は今年度で大学の仕事も終わりにしますので、これからは「エスペラント作家堀泰雄」と「世界の音演奏家笛吹男」(珍しい楽器のコンサート活動でエスペラントの宣伝)の2つの肩書きでがんばろうと思っています。受賞を機会に、今後一層この崇高な使命のために献身することを誓って、受賞のあいさつと感謝の言葉としたいと思います。

略歴
 1941年東京生まれ、3歳で群馬県前橋市に移り、その後は群馬県人。大学卒業後、群馬県の高校教師(英語)、4年間東京で編集者生活、その後日本福祉大学(愛知県)の非常勤講師で現在に至る。エスペラントは、中学時代に父(編注:堀正一氏)から学ぶ。本格的に取り組みだしたのは、今から20年ほど前。その後日本エスペラント学会理事、関東エスペラント連盟事務局長、教職員エスペラント協議会事務局長、アジアエスペラント運動委員会委員長などの役職に就いている。




Niaj pioniroj

Cxiuj cxambroj, kiujn ni uzas por la kongreso, portas nomon de niaj pioniroj forpasintaj. Cxi-jare krom Zamenhof ni prenis nomojn de niaj pioniroj, kiuj aktivis en Japanio, interalie en la distrikto Tokai. Cxeestantoj konatigxu kun ili pere de la cxambroj. Cxi tie ni prezentu iliajn vivojn. (laux la jaro de la forpaso)

Lazaro Ludoviko Zamenhof (1859〜1917)
La kreinto de Esperanto.

NITOBE Inazo (1862〜1933)
Vicsekretario de iama Ligo de Nacioj. Li proponis oficialigon de Esperanto.

MIYAZAWA Kenji (1896〜1933)
Fame konata poeto kaj verkisto de porinfanaj rakontoj. Pia budhano. Li verkis kelkajn poemojn en Esperanto.

Vasilj Erosxenko (1889〜1952)
Rusa poeto. Li restadis en Japanio de 1914 gxis 1921, kaj disvastigis Esperanton en Japanio, Cxinio kaj aliaj aziaj landoj.

OKAMTO Josxicugu (1900〜1956)
Pioniro en japana Esperanta movado. Redaktis "Esperanto-Japana Vortaro"-n (1926) kaj "Japana Esperanta Vortaro"-n (1935).

AKITA Ujxaku (1883〜1962)
Dramverkisto. Li estis longe gvidanto de japanaj dramistoj. Li verkis lernolibron de Esperanto kun Ossaka Kenjxi, "Memlernanto de Esperanto" (1923).

YAGI Hideo
(1899〜1964)
Ginekologo. Prezidanto de la Universitato de Okayama. Unua prezidanto de UEA el Azio.

SIRAKI Kinsyox  (1891〜1965)
Antaux la Dua Mondmilito li estis komercisto kaj la prezidanto de Nagoja Esperanto-Societo. Post la milito li farigxis bonzo. Antaux la 50a UK en Tokio li energie kolektis monon, sed mortis antaux la kongreso. Lia figuro estis prezentita per televido.

JUI Cxuunosxin
(1894〜1967)
Unu el la fondintoj de Nagoja Esperanto-Societo. Pacamanto. Li apelaciis por cxesigi la Vjetnaman Militon per sia ago, sinbruligo.

ITO Saburo (1902〜1969)
Poeto. Auxtoro de "Zamenhof, la Auxtoro de Esperanto" (de Iwanami Sinsyo)

OSSAKA Kenjxi (1888〜1969)
Patro de Esperanta Movado en Japanio. Cxefulo de la fondintoj de JEI je 1919. Li verkis multajn lernolibrojn de Esperanto.

NISHI Seiho (1885〜1978)
Anatomo. Prezidanto de Universitato de Gunma. Li estis cxefdirektoro de JEI.

KAJxI Hirokazu (1898〜1978)
Dentisto kaj eldonisto de Esperantaj gazetoj kaj libroj diversaj kaj multaj. Kompilanto de Japana Esperanta Vortaro. La unua prezidanto de Tokai-Esperanto-Ligo

MIJAKE Sxihej
(1901〜1980)
Li estis longe gxenerala sekretario de JEI. Akademiano. Li kompilis "Vortaro de Esperanto"-n (1965)

TOKI Zenmaro (1885〜1981)
Utaisto. Li movadis por la latinigo de la japana lingvo. Li estis direktoro de JEI.

SHINODA Hideo (1901〜1985)
Ginekologo. Li estis prezidanto de UMEA (Universala Medicina Esperanto-Asocio).

MIYAMOTO Masao (1913〜1989)
Li estis gxenerala sekretario de Kansaja Ligo de Esperanto-Grupoj. Akademiano. Li kompilis "Esperanto-Japana Vortaro"-n(1963) kaj "Japana Esperanta Vortaro"-n (1983). Restas liaj multaj Esperantaj verkoj originalaj kaj tradukitaj.

NIWA Masahisa (1913〜1999)
Li estis oficisto de la urbo Nagojo. Li ricevis Ossaka-Premion en 1957 pro sia agado en Nagojo. En lastaj jaroj de la vivo li gvidis la grupon Cxambro Cxarma, mem luante cxambron en apartamento.

TAKENAKA Gxisuke (1904〜2001)
Unu el la fondintoj de Nagoja Esperanto-Societo. Post la milito li estis peranto de El Popola Cxinio kaj kontribuis por amikeco inter Japanoj kaj Cxinoj.

KAWAMURA Seiziro (1896〜2003)
Li longe aktivis en Nagojo, kaj estis prezidanto de Tokai-Esperanto-Ligo (1963〜1973). En lastaj jaroj li logxis en la urbo Uzi. Longe li estis la plej agxa esperantisto en Japanio, kiu ne nur vivis longe sed restis leganto de Esperantajxoj.



大会の組織と役割
        (主な担当・役割)

大会会長 柴山 純一 来賓接待、JEI関係分散会総括。
KKK常任書記 土居智江子 JEI、KKKとの連絡・調整、大会運営ノウハウの伝達と指導

実行委員会
委員長 黒柳 吉隆 総括、渉外、分散会・分科会・大会サロン
副委員長 猪飼 吉計 「愛の決断」翻訳、市内散策
事務局長 山田  義 事務局、広報、会場設営、開会式・閉会式演出、郵便局印影デザイン
会計 Akira(斎木) 会計、Kongreslibro・大会報告書(編集・印刷・製本)、大会受付、サンパーク、早朝散歩
委員 糸魚川美樹 開会式(司会)、接待
黒柳 文子 記念品、クジス大使接待、弁当、記念写真、記録写真
斎木 昌代 遠足(企画と案内)、接待、子供・託児
永瀬 勝義 アイデア提案
長谷川 勉 ヘンリーさん(接待、分散会)、記録写真
藤木 修三 ホームページ制作、パソコン関連器材、LKKサロン
松本 祐子 大会マスコット制作者との連絡、荷物預かり
山田シマ子 記念品、遠足、初心者サロン、演芸の集い(司会)
山田富久子 記念品、弁当、受付
山本  修 LKK独自会計、エスペラント展示、演芸の集い、大会郵便局、市内散策
米川 五郎 実行委員会の議長、クジス大使

地元協力者
飯田 和彦 案内、荷物預かり、弁当
石川 一也 初心者サロン
今井佳代子 弁当、受付
岩谷  満 パソコン関連器材、エゴロヴァスさん出向かえ
瓜生 秀明 荷物預かり、弁当
大河原和枝 弁当、受付
大平みどり 弁当、受付
小川 一夫 初心者サロン、案内
小川 博仁 演芸の集い(出演)、会場係
川地 貴子 呈茶
川地 善則 記録、呈茶
熊代 幸子 受付、接待、弁当
黒柳 真理 UK2005、外国からの参加者を囲んで(司会)
小島 暁子 弁当、受付
後藤 好美 演芸の集い(出演)、会場係
阪   直 「愛の決断」のエス訳校正
佐藤 康則 演芸の集い(出演)、会場係
鈴木 善彦 Libroservo
千田 稲子 弁当、遠足
千田真知子 受付、LKKサロン
高橋知恵子 受付、接待、弁当
竹内知佐子 子供、託児
田代 典子 呈茶
畠山  茂 弁当
萩原 将矢 案内、荷物預かり
林  由子 呈茶、遠足
藤本日出子 呈茶、受付
宮下 桂子 弁当
宮下 真美 LKKサロン
森  栄子 呈茶
森 テル子 呈茶
森  満政 荷物預かり、弁当
山本由紀子 案内、受付

 なお、東海地方以外から、LKKのプログラムに企画・協力してくださった方々は、次の皆さんです。
 菊島和子(ピアノ演奏会)、牧野 哲(ヤクヴォ講演)、矢崎陽子(エスペラント教材パワーポイント版)、大石 陽(初心者サロン)、前川治哉(大会郵便局)


LKK活動記録

月日 活動項目
2001年
 10.13 打診
 11.02 相談会(刈谷勤労福祉会館)
 12.14 招致の意思表明
2002年
   2.02 相談会(山田宅) 宝塚の日本大会で、大会開催を打診された者を中心に相談し、「2004年の日本大会を東海地方で」を合言葉に東海地方在住者に呼びかけた。
   3.09 検討会(刈谷勤労福祉会館) 「久しぶりにやるからには、5〜10年先に立派なものを」という声もあったが、2004年の招致を決める。個人の有志による実行委員会方式で組織し、役員を決めた。

  3.21 承認 KKKから大会開催を承認
(承認事項)対象:第91回(2004)、開催地:東海地方、申し出:同地域の有志による準備委員会。
  4.13 第1回実行委員会(刈谷勤労福祉会館) 実行委員会の進め方(委員:本 人の自由意志で参加、退会。委員会:協議の場、決定は多数決。議事報告:情報の共有)と会計処理の原則(会議の交通費、食事代、宿泊費は個人負担。ただし、黒字の場合には、還元があるので、記録に残す。代表者としての調査・渉外などの交通費は公費負担)を決めた。
  5.25 第2回実行委員会(八ヶ岳エスペラント館) 懇親会と自由討議(大会テーマ、日時、会場、プログラム、遠足、記念品など)。主会場を犬山国際観光センター「フロイデ」に決定。
  7.13 第3回実行委員会(名古屋国際センター)
開催日を10月22〜24日に決定。
  9.07 第4回実行委員会(刈谷勤労福祉会館)
「犬山」のローマ字表記を「INUYAMA、Inuyama」に決定。
10.04 第89回(福島)大会参加(〜10.06)
大会運営について研究。ポスター掲示。
10.12 第5回実行委員会(名古屋女性会館)
11.09 第6回実行委員会(刈谷勤労福祉会館)
大会記念品を新美南吉作品集のエス訳に決定。
12.07 フロイデまつり参加(〜12.08)
「エスペラント展」で、市民にエスペラントと大会をPR。
2003年
  2.08 第7回実行委員会(あいち国際プラザ)大会テーマを、「Gxoju kaj  Kunvivu
Esperante」、「エスペラント語で生きる歓びを」に決定。
  4.12 第8回実行委員会(あいち国際プラザ)
遠足を杉原千畝記念館と市内散策に決定。
  5.11 犬山エスペラント講座(〜6.29)(フロイデ)
大会の地にエスペラントの種まき。
  6.21 第9回実行委員会(サンパーク犬山)
主催者団体としてJEI、KKK、LKKを確認。大会会長を柴山JEI理事長にお願いすることとした。
参加費を亀岡大会と同じにした。宿舎はサンパーク犬山のみLKKで受け付け、その他は紹介のみとすることを決定。 シンボルカラーを明るい水色に決定。
  9.06 第10回実行委員会(刈谷勤労福祉会館)
大会マークを人道の丘からデザインしたものに決定。
  10.11 第90回(亀岡)大会参加(〜10.13) 大会第1報配布、受付開始。
  11.15 第11回実行委員会(刈谷勤労福祉会館)
主プログラムとしてアンドレイのピアノ演奏会、リトアニア大使の講演、ヤクヴォ氏の講演を確認。
  12.06 フロイデまつり参加(〜12.07)
「エスペラント展」で、市民にエスペラントと大会をPR。
  12.07 大会第1報綴じ込み(RO12月号、La Movado12月号)
2004年
  2.06 大会第2報綴じ込み(RO2月号、La Movado3月号)
  2.09 犬山市長訪問
  2.11 第12回実行委員会(犬山観光センター「フロイデ」)
分散会・分科会、大会サロン、初心者サロン、演芸の集いなどの要領を確認。「愛の決断」エスペラント版の翻訳、出版を決定。
  2.22 後援許可・許諾(〜3.30) (LKK:地方その他)犬山市、犬山市教育委 員会、愛知県、愛知県教育委員会、在日ロシア大使館。
  4.10 第13回実行委員会(あいち国際プラザ)
  5.09 犬山エスペラント講座(〜6.27)(フロイデ)
昨年に引き続き、大会の地にエスペラントの種まき。
  5.15 第14回実行委員会(拡大)(フロイデ)
  6.01 後援許可・許諾(〜7.30)(JEI:中央関係)文部科学省、日本ユネスコ国内委員会、(社)日本ユネスコ協会連盟、(社)日本ペンクラブ、(独)国際交流基金。
  7.10 第15回実行委員会(あいち国際プラザ)
  7.15 「Decido pro Amo」(第1刷)製本
  8.06 大会第3報綴じ込み(RO 8-9月号、La Movado 8月号)
  8.26 第16回実行委員会(フロイデ)
  9.05 追加応募のダイレクトメール発送
  9.07  大会についての広報 新聞7社、テレビ・ラジオ7社に依頼
  9.11 第17回実行委員会(フロイデ)
  9.17 後援許可・許諾 八百津町
  9.25 「Decido pro Amo」(第2刷)製本
  9.25 直前情報発送
10.03 Kongreslibroの印刷製本
10.12 エスペラント展示(〜10.24)
10.12 第18回実行委員会(フロイデ)
10.22 第91回(犬山)大会本番(〜10.24)
12.11 第19回実行委員会


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